三十両

三十両ぶんの価値ある文章を目指すブログ。
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若者の○○離れ論
若者の○○離れという言葉が、もうネットの世界ではうようよ漂ってます。
まとめてあるものがあったので、転載します。

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若者が離れてるもの一覧

テレビ離れ
クルマ離れ
読書離れ
酒離れ
新聞離れ
タバコ離れ
旅行離れ
活字離れ
理系離れ
プロ野球離れ
恋愛離れ
雑誌離れ
CD離れ
映画離れ
ゲーセン離れ
パチンコ離れ
腕時計離れ
スポーツ離れ
献血離れ
セックス離れ
日本酒離れ
ブログ離れ
アカデミー賞離れ
寿司にわさび、おでんにからし離れ
マラソン離れ 
ガム離れ

~~~~~~~~~~~~~~


もうありとあらゆると表現していいくらい、
脈絡も関連性もなく多種多様なものがあげられています。
ぼく、なんだかこの話題が大好物みたいで、
何か新しい○○離れが提案されるたびに、
「ふんふん、確かに俺もそうだよなー」とか、
「いや、それは勝手な言い分だろ」とか、
いちいち反応しながら楽しんでます。

このトレンドの原因やら、
それぞれの○○から離れた結果としての将来予測なんかについては
色々な人が説得力のある話を語っていますけど、
なんかこの楽しめちゃう感じって、すごく血液型占い的なんですよね。
一見、根拠がありそうで実は明確でなく、
でも結果としてはどう見てもそのような現象が発生しているように見えるといういい加減な感じが。
当事者なのに、野次馬や傍観者のようになれてしまう感じも。

唐突ですが、
自分の生きやすい環境を構築するために周りを変えるか自分が変わるか、
どちらがよいかと訪ねられたら、みなさんはどちらでしょう?

僕は今までの生き方を振り返ると、圧倒的に自分が変わる方を選んできてると思います。
だから、余計にそう感じるんじゃないかと思いますが、若者世代はリソースに合わせて自分が変わるという人が多い気がします。言い換えると、保守的です。あと草食系というキーワードにも絡んでいそうです。
例えば給料が自分の思い描いている成長曲線を描いていないとき、給料を上げようと努力するんではなくて、給料にあわせて生活を変えようとしたり、車を買うんじゃなく公共交通機関を使ったり、家族や恋人を持たず一人で過ごす方法を工夫する。そんなふうに。
自分の手の届く範囲の中にあるものを適切に管理しようとする、
すごく合理的な発想がそこには働いています。

社会の目から見ると、消費が低減するわ、出生率は下がるわ、文化は廃れるわと良い事なしに書かれてますけど、もしかしたら、単にマクロの世界で間違えていると思っていてもミクロの世界では正しいという、合成の誤謬になってるようにも感じます。
もし若者の行動原理を変えたいと感じるなら、
一人一人の若者の行動の合理性を認めた上で説得しないと、
誰も聞く耳を持ってくれないんじゃないでしょうか。と。
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「おくりびと」の成功に寄せて
おくりびと、話題になってますね。エンタメに携わることを志す者の一人として、この功績を素直に喜んでます。でも、よく考えてみると、この一大ニュースの裏にある日本人の変化という現象が透かして見えるような気がします。

日本アカデミー賞、ブルーリボン賞など、日本には大きな映画賞がいくつもあります。二十年くらい前、僕の親の世代の日本人はその賞の一挙手一投足に注目していて、その出来いかんが興行収入にも大きく関わっていた、と思います。でも、最近じゃあ日本の作品は海外で評価されないと、話題にもなりませんよね。

日本のビジネスがグローバル化を志向するようになって十数年、エンタメという業界での現象だけを切り取っても、その時代に生きる僕たちの目はどんどん世界に向けられていっているような気がします。今のように日本のマンガやアニメが日本人の間で見直されたのは、山本浩二の『頭山』から始まる海外での評価が逆輸入されてきた結果ですし、ラストサムライが興行的に成功したのはひとえに渡辺謙が重要な役としてハリウッドで起用されたという話題性によると思っています。

そう考えてみると、不思議と僕の関わる小説の世界は、ほとんど全くと言っていい程グルーバル化されておらず、相変わらず国内に閉じこもってますね。台湾や韓国を除いて、世界的に有名な現代日本作家といえば、村上春樹さんくらいのものじゃないでしょうか?

縮小する出版業界を打開する鍵をグローバル化に求めることは、きっと業界の中のほとんどの人が意識していると思うんです。でも、それが出来ないという事は、出来ないなりの理由があるんでしょうね。
おくりびとの成功(興行的にはまだ結果が出ませんが)が、出版業界に再生の種を蒔くような事件になってくれればいいと思っています。
ダメニーズ開拓について
ちょっと情報は古いんですが、先日発売された文房具に『クルトガ』というのがあります。三菱鉛筆から出ている自動的に芯先が回転して常に一定の尖り方になるシャーペンです。これのすごいところは、それ以前に全くなかったニーズを作り出したということです。それまで誰も、芯の尖り方が一方に偏っていても、特に気にせずに文字を書いてました。握りなおすときに自分でシャーペンを回して書けばいいから、ほとんど労力もかからないし、ストレスは感じてなかったし。ところが、三菱鉛筆はこの商品を登場させることによって、それまで全く意識に上らなかった、シャーペンの芯が偏っているのって何か嫌だなぁ、という問題を作り上げることに成功したわけです。
自分で問題を作り出してその解決方法を提示する、という一連のマッチポンプをビジネスの場において行う場合、一般的に「ニーズの開拓」と呼ぶそうです。
もっと古い例では、鉛筆のおしりに消しゴムをつけたのもそういうことなんだろうと思われます。
このニーズの開拓が上手い具合に転がるとプロジェクトXとかカンブリア宮殿に出るような成功譚になるんですが、世の中見渡すと、それがマイナスに転がっていることもしばしばあるな、と思ったりします。

それが、ダメ「ニーズ開拓」ですよ!(かってに改蔵風味)

いやぁ、これを思いついたのは近所のドラッグストアのレジ接客をみたときなんですけどね、店員の人がおつりを渡すときに言うんですわ。
「まずこちら、大きいほうから四千円になります。おつぎ、小さいほうのお返しです」
みたいな、ことをね。
いつからの習慣かわからないけど、多分僕が生まれる前からこんな言い方してたんでしょうね。だから、ある時点まではこんなこと言われても、全く気にならなかったんです。本当に全く。僕はコンビニのバイトを一年間くらいした経験がありまして、そのときのマナー講習で教わったんですが、この言い回しは本来やっちゃいけないもの、というか存在しなかったものらしいんですよね。口うるさいお客さんは、こういうことにクレームをつけるんですわ。
「大きいほう、小さいほうって何だよ、トイレの話かよ」
「になりますって、じゃあ、それ以前はなんだったんだ、四千円じゃなかったのかよ」
みたいな、ね。
リベラルでヒッピーでフリーダムな学生の立ち位置としては、「そんなのほとんど揚げ足取りじゃねぇか、くだらねぇぜ(笑)」、という立場に寄り添いたいものです。寄り添いたいものですが、なーんか、そのバイトを経験して以来、そういう接客がダメになっちゃったんですよね。いや、最初にそういう指導をうけたときは、軽い反発を感じたんですが、その問題意識の種が時間とともに成長して、ダメになっちゃったんです。
そして、重要なのは、その問題意識によって良い事があったかというとそうでもなく、自分自身で社会生活の許容範囲を狭めたことによって、逆にストレスを感じることが多くなってしまったということです。
要するに、これがダメニーズ開拓の一例です。

見渡せば、世界中でダメニーズが開拓されていることに気づきます。
例えば、日本における同和教育なんて顕著な例ですね。僕は、特にそれが激しかったといわれる三重県出身なんですけど、部落差別なるものを見たことも聞いたこともなかったんですよ。というか、23年間も生きてきて、いまだに一度もその現場に接触したことがない。何も問題が起きていないのだから、そのまますごせば、一生部落差別を意識することなく、わけ隔てなく生きていけそうなものなんですが、高校生のときにそのテーマの映画を見せられて以来、『えた・ひにん』という概念について、タブー意識を持ってしまったんですよね。
この教えてgooのページがわかりやすいです。
「部落差別」教育って必要?
議論が必要な話ですが、もうすでにほとんど根絶している(と経験上思われる)のだから、それを意識しなければ差別は元から消えるんではないかと個人的には思ったりします。必要以上の差別教育はダメニーズを開拓してしまう危険性をはらんでいます。

その他、
・なぜ、人は健康を度外視したダイエットに走ってしまうことがあるのか?
・なぜ、恋愛至上主義下でむしろ出生率が低下するのか?
・なぜ、派遣事業が否定されてしまうのか?

などの諸問題にダメニーズの開拓が関わっているように思われます。

このままいくと最終的には、「じゃあ、全ての人間がインテリジェンス(笑)を失って馬鹿になればいいんじゃないか」なんて極論になってしまいそうなので自重しますが、世の中をより快適にしよう、新規ニーズを開拓しよう、という動きによって逆説的にダメニーズが開拓されてしまうことは、十分にありえるということは間違いないと思います。

このダメニーズ開拓の記事自体が、ダメニーズを開拓してしまうという入れ子構造もまた、否定できません(笑)
ほぼ読んでます
最近また、ほぼ日刊イトイ新聞の読者になった。

ネット社会ではほぼ日の存在はとても有名なので、あえて説明する必要もないけれど、
10周年をむかえたこのサイトとの付き合いは、中学二年生のころから数えて、もう9年弱になる。
このホームページの多種多様なコンテンツを見て、大人びた気持ちに浸るのが、14才の僕のささやかな日課だった。
ほぼ日手帳にあこがれて、この商品が開発されたとき、LOFTに常設されるほど有名になるずっと前から毎年欠かさず使っていることが僕の小さな自慢だ。
糸井さんの独特な語り口の散文を、自分なりに真似して書いた宿題の作文で、「なにを書いているのか、全くわかりません」という屈辱的なコメントを国語の教師から授かったのは、いい思い出だ。
mother3の制作中止発表の長い記事を、ため息をつきながら読んだことも、いい思い出だ。

そんな、心の支えだったほぼ日を見なくなってしまった原因は覚えていない。
ただ、ある日、もうほぼ日を見るのをやめようと決意したのを覚えている。
確か、4~5年くらい前か。
とにかく、僕は突発的に何かを始めたり、こわしたりするのが好きだった。

久しぶりに、ほぼ日を見てみると、すごくページデザインが綺麗になっていた。
あと、商品が増えていた。
なにやら、社員も増えたらしい。
僕が見ていたときは、確か10人ちょっとくらいだったのに、いまや30人以上とかなんとか。少し流行に乗り遅れている人ならば、モーニング娘みたいだ・・・とつぶやいただろう(確か、パンダみたいな名前の新人が入ったところで、増加が止まってるんだよ・・・ね?)

いやぁ、立派になったもんだ。
僕はさながら、インディーズ時代から応援してきたバンドの武道館公演を見る、ロックなおっさんのような心境だった。

僕は最近また、ほぼ日刊イトイ新聞の読者になった。
デザインはすっかり新しくなってしまったが、相変わらずオトナのおもちゃ箱のような、雑多なコンテンツをのぞいていくと、なんとなく中学生の自分が重なるようで、こそばゆ楽しい。
天然コケッコーを追った日
―――7月28日、18時15分。

新宿の街は夏祭りのムードに染まり、
土曜日、肩が触れ合うほどに混み合った歩道を行く人たちは、
ところどころで配られている広告入りの団扇をひらひらさせながら、
蒸した暑さすらも楽しんでいる様子であった。
おりしも、その日は「新宿エイサー祭り2007」というイベントと重なったらしく、駅前の通りを沖縄の伝統舞踊が行きかい、三線と太鼓の音はビルディングに反射して、ヒートアイランドを天然のライブハウスへと変えていた。
そんな喧騒を横目に、新宿武蔵野館1番ホール前には100人強の人だかりが出来ていた。席数150ほどの小さなホールに入るために、整理券が配られたのだ。というのも、その日は、ある映画の公開初日であり、監督による舞台挨拶が控えていたのだった。

天然コケッコー
『いつもポケットにショパン』でも有名な漫画家くらもちふさこの原作を、
『リンダリンダリンダ』の山下敦弘監督
『ジョゼと虎と魚たち』の渡辺あや脚本で映画化した作品だ。
生徒数わずか七人の学校を舞台に、主人公の女の子、右田そよと、東京から転校してきた男の子、大沢広海を中心とした人間関係を叙情的に描いた作品だ。

「―――整理番号51番から60番までのお客様、どうぞ。」
自分の整理番号が呼ばれた。
ホール内は鳥肌が立つほどにクーラーが効いており、
私は朝から下し気味だった腹を押さえながらも、
周囲の会話から観客の映画に対する期待の高さを感じ、
それに鼓舞されるようにしてかすかな興奮を覚えていた。
程なくスタッフにより舞台挨拶にまつわる諸注意があり、
本編が始まった。



―――井戸水をミネラルウォーターで希釈したような清潔感をもった映画だった。
田舎の穏やかさ、不便さ、ひなびた老人のにおい、保守的な固定観念、思春期の敏感さといった、どこか泥臭い成分が、研ぎ澄まされた演出や、説明しすぎない脚本によって、薄められ、あるいは変質して、天然コケッコーらしさともいえる雰囲気を作り出していた。

そして、終盤。

エンディング前の一切音のない長回しのシーン。ホール中がひっそりと静まり返り、誰もが息をひそめながら沈黙の心地よさを味わっていた。

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・どっどっどっどっ♪

スローテンポのバスドラが静寂を破り、
くるりの『言葉はさんかくこころは四角』が流れ出した。
不思議なことに、その瞬間、たった二時間のつきあいでしかない村の風景や人物に、私はノスタルジーを感じていた。物語が終わることに寂しさを覚えたのは、久しぶりのことだったので、驚いた。
それだけ、いい作品なんだと素直に思えた。


―――上映終了後、山下敦弘監督、小川真司プロデューサー、根岸洋之プロデューサーらが登場して、撮影の裏話を語ってくれた。

「昨年の夏に二週間ほどと、秋にまる一ヶ月かけて、二回にわけて島根で撮影を行いました。夏と秋で変わっていることは多かったんですが、夏の撮影が終わった時点で、しげちゃんの役(郵便局の職員、映画でも登場回数が多い濃いキャラクター)が決まっていなくて、東京に戻ってからオーディションを繰り返しました。多くの役者さんが、しげちゃんを良い人のように演じる中で、廣末さんだけが、しげちゃんをこわく演じていて印象的だったので彼に決定しました。
また、子どもが主人公なので、夏と秋の短期間の間にも体が成長してしまって、同じ服なのにすそが足りなくなったりしましたね。
(とあるシーンでは、)さっちゃん(学校の中で一番小さい子ども)の、歯が抜けてしまったので入れ歯をいれているんですが、よく見るとその様子がわかると思います。

(映画ならではのこだわりは?と尋ねられて)
そよと広海のキスシーンはそのまま撮ると決めていました。
あとは、最後の教室の長いカットは映画でしかできないことだと思っていて、自分でも、このアイディアを思いついたときには、これはいいな、と思いましたね」

その後、観客との質疑応答の時間を作ってくれたので、
私は思い切って口火を切って、くるりの曲が決まった経緯について質問してみた。

「くるりというアーティストは最初からすっと出てきました。
シナリオをみせて依頼をしてみたのですが、岸田さんが曲が作れない状態だったらしく、ずっと向こうサイドからは、無理です、と言われていましたが、ある日、帰り道でふと思いついたらしく、曲を作っていただけることになりました。
くるりには映画も気に入っていただけたみたいで、実際に島根にも行ったみたいです。映画自体も三回も見てくれたらしいです。」

その他、監督みたいになるにはどうしたらいいか、という質問に対しては、
「監督は将軍型とバカ殿型があって、私は典型的なバカ殿型です。
頼りないから、周りがどうにかしないといけないと思って、頑張ってくれる。
私みたいになりたいなら、自然体で、ひょうひょうとしていればいいと思います。」
と、苦笑しながら答えていた。

最後に、
「映画は説明が少ないので、何度も見ていくと、そのたびに気づきがあります。別に4年後でもいつでも、かまわないから、ぜひ、くるりさんのようにこの映画を三回見てみてほしいです。ありがとうございました」
三人の言葉をうけて、舞台挨拶は終了した。




―――舞台挨拶が終わって、劇場を出ると祭りの熱気もほのかに落ち着いていた。
今年のお盆は田舎に帰って久しぶりに中学校でも訪ねてみようか、と思った。
あのころの気持ちを天然コケッコーに重ねて。




※おまけ
舞台挨拶は撮影禁止だったが、
終了後、たまたま監督らが出てくるところに遭遇し、
お願いしたところ、一緒に写真を撮っていただけた。

山下監督ら


山下監督は天然コケッコーにも登場しそうな素朴な雰囲気をもった男性であった。
右の男性が小川プロデューサー、山下監督の後ろの男性が根岸プロデューサー。
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